殴られても「家に帰りたい」と言う理由について

テレビを見ないのでよくわかりませんが、児童相談所が関与したにもかかわらず子どもが命を落とした事件が話題になっているようです。

 

この事件を伝える報道の中で、被害児が「家に帰りたい」と言っていたことを伝えるものもあり、混乱している方もいるかもしれません。

 

 

このエントリーは出先で書いているため文献等を参照していませんが、いくつもの虐待事例を読んできたことで確信していることがあります。

 

それは、子ども(というよりも人間一般)が強く恐怖を感じるのは、殴られる痛みなどよりも、「予見可能性がないこと」、先の見通しが立たないことだということです。

 

痛みが訪れるタイミングが分かっている状態と、痛みに襲われることが予想されるがそれがいつ来るのか分からない状態では、どちらにより強い恐怖を感じるか、と問われるとその感覚が伝わるでしょうか。

 

この事件の被害児は、児童相談所の一時保護所に何度か保護されたようですが、普段接する大人から常に罵声を浴び、殴られている子どもには、その「安心できる環境」はどのように感じられたでしょうか。

 

最も身近な大人とのコミュニケーションの根幹に暴力があったわけですから、いま目の前にいる優しい人も、もう少し経つと殴ってくるかもしれない、もうちょっとわがままを言ったらさすがに怒鳴られるかもしれない、といったことを考えているかもしれません。

しかも一時保護所では複数の職員が交代で子どもの面倒を見ることになりますし、普段の幼稚園や学校にも通えなくなると、いよいよその子にとっての「安定した人間関係」がない、非常に予見可能性の少ない状態となります。

 

次に何が起きるか分からない状態が長く続くよりも、たとえその見通しが「罵倒され殴られる」という状態であったとしても、その殴られるという確実な見通しのある日常に戻ることを選択するのです。

(もちろんその子の性格や置かれている状況にもよりますが。)

 

これは、里子として引き取られた被虐待児の「試し行動」でも同じことが言えると思われます。

試し行動とは、不適切な養育環境で育った子どもが、安定した環境に移った際に、わざと大人を怒らせるような行動をとることを指します。

試し行動は、自分のいる環境が本当に安心できるものかを確認するための行動だとされてきましたが、私はむしろ殴られることそのものが目的なのではないかと考えています。

被虐待児にとって、悪いことをしても殴られない、という環境に置かれることは、むしろ見通しが立たない非常に不安な状態です。

そのため、自分の馴れ親しんだ、暴力が日常にある環境を作り出すために、これでもかと大人を怒らせ、相手から暴力を引き出そうとしているのだと捉えた方が、より彼ら/彼女らの行動を合理的に説明できるのではないかと考えています。

 

 

このような、初期条件に暴力がある子どもたちが、殴られない環境を「安心できる環境」だと認識できるようにするにはどうすればよいでしょうか。

 

そのためには、一にも二にも、その環境を用意し、その状態を持続し続けることですが、さらにそのためには、児童相談所などの子どもに関わる専門機関の体制や人員を強化し、その機能を強化することが必要です。

いま児童相談所がその機能を高めるために必要なものは、人手や金や他機関との連携などであって、バッシングではありません。

 

 

児童相談所の機能を高めるためにも、現状の問題点を指摘し批判をすることはとても重要なことですが、「少ない人員でもただただ一生懸命に全ケース完璧に対応しろ」というような非現実的な批判(バッシング?)が、本当に子どもの保護に有効に働くのかどうか、少し落ち着いて考えてみても良いと思います。